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ふるさとのお社探訪

一之宮神社/三日祭

一之宮神社  

 

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鎮座地

〒890-0065

鹿児島市郡元2-4-27

 

御祭神

 大日靈貴命(オオヒルメムチノミコト)

 

例祭日

 11月9日

 

御由緒

 

 daだ第三十八代天智天皇の御代、天皇の一之姫宮が、現在の指宿市開聞十町鎮座枚聞神社(薩摩一之宮)の御分霊を供奉し、当初涙橋畔(本社飛地境内地)に奉祀されたが、その後現在地に移転されたと伝えられる。

当初より一之宮大明神と称え、神領は七十二町歩(現在の郡元、鴨池、武、田上、宇宿一帯)におよび、隣接の延命院(明治以前に焼失、現中郡小学校)と共に、島津藩は勿論近郷の崇敬殊の外厚く、隆盛を極めた。 

島津初代忠久公以来、毎年元旦に、先ず一之宮、次に二之宮(現草牟田鹿児島神社)、次に三之宮(現川上町川上天満宮)を巡拝するを例とし、十八代家久公までその例が続いた。

元禄の御代、神社名を一條宮と改称、下って明治初年の地租改正の折、更に郡元神社と改称したが、昭和三十年当初の一之宮神社に復した。

 

 

 三日祭について (一月三日)

 

当社の境内に、二千年前の弥生時代の竪穴式住居跡(一之宮遺跡・県指定史跡)がある。昭和二十五年に発掘され、地表より僅か一メートルのところに古墳時代に至る集落遺跡が確認された。

平成元年には、隣接する中郡小学校の体育館敷地の発掘調査の際、古墳時代(六世紀)のものと思われる金環が出土し話題となっている。

当社の近辺は古来水利が良く耕作に適した平地であり、また神社の西方に唐湊の地名が残るように、海岸線が近く海の幸に恵まれ、紫原の台地は山の幸の宝庫であった。

 

当社は天智天皇の御代の創建と伝えられ、人々の暮らしと共に千三百余年の歴史を閲して今に至っている。

正月三日の打植祭は三日祭(みっかんまつい)とも称され、人々の五穀豊饒の願い、集落の安寧の祈りを込めて連綿と営まれてきた。

 

起源由来は不詳であるが、江戸時代の宝永八年(1711年)辛卯八月六日、その筋の「神社仏閣由緒縁起御改」に際し、神人七門の名頭たちが記した文書にこの打植祭の記載がある。

 

別当延命院の火災により由緒書を焼失したが、語り伝えられる神社創建の由来が述べられ、また十月朔日の濱殿下り(現在も十一月九日の例祭に合わせ斎行)と共に、正月三日の打植の儀を行うという。

この七門の家は、当社を創建されたと伝える天智天皇の一之姫宮に付き従ってきた家柄である。

また明和五年(1768年)、当時の社司佐藤氏の記した文書に、「正月三日の祭には古来より御輿にて御宮廻り」とある。

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往時の祭儀の次第は不明であるが、まず苗(松葉を代用)、モミ米、重ね餅を供えて祈願祭を行い、終わって台車の付いた木製の牛を引いて社殿を右回りに三周する。現在は神輿は出していない。

次に境内に設けた模擬田で、牛にモガを引かせ田ならしの所作をするが、細竹を振るって牛を追い、掛け声をかけて本物の牛の如く扱うのである。

 

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そして氏子たち子供たちが、折からの初詣の参拝者も加わって田植えを行い、宮司が今年も豊作とモミ米を散布して修了する。

最後に人々はお供えの薄い餅を手で割り、学業の向上を願う子供は牛の頭を、眼を病む人は牛の眼を、子宝を望む婦人は牛の…をと、それぞれの願いを込めて餅で撫でさする。

この餅を、焼かずに煮て食すれば願いは叶い、その年無病息災と伝承している。

 

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昭和の三十年代の頃までは点在していた田畑もすっかり無くなり、県庁が移転してくるなど都市化の進んだ当社周辺であるが、市内では珍しい、古来の生活、文化の有り様を伝える行事として後世に永く残したい特殊神事である。



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