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ふるさとのお社探訪

照國神社の國旗祭

筑前茜染日章旗文字入り.jpg●國旗祭について

 

日章旗の起源を考えると、これは一朝一夕に成立したものではなく、古事記に

「この地は朝日のただ射す国夕日の日照る国也」とあるように、神代から既に太陽礼讃の思想があったもので、それ故に国号を

『日の本(ひのもと)』・『日の神の御国(ひのかみのみくに)』・『日の出る国(ひのいづるくに)』と称えました。

この思想が日月陰陽にとって代えられ、文武天皇の御代に日月章旗が作られ、これが文献に記された初めとされています。

時は流れ、幕末未だ鎖国の時代、齊彬公は、欧米諸国の植民地政策を恐れ、逸早く富国強兵を唱え、大型艦船の建造を願い出ました。

このとき公は、外国船と区別するためにも日本の印が必要であると、「日の丸」を総船印にするよう幕府に願い出ました。

公は国旗発案について

「日本は日の本の国と異国にても申し居り、又は日出る国とも唱ふる由国名に於いても相当し、天照皇大神の天の磐戸を御出になりてより、此日本は開けて今日に至りし難有国なれば、夫等の事をも考えて見立てたり」と語っています。

当時幕府では従来、旭を船の章としていたことから、

「日章旗を以って御国の総船印とするはよろしくない、中黒を用ふるがよい」などと幕臣の抵抗が強く、否決の流れに到ったとき、水戸の徳川斉昭公と図り、

「中黒は源氏の徽章であるのを、我が国の国旗として日の丸を幕府の章とするは、本末を転倒したものであって、此の事は万世の目印ともなり、且又我が国開闢以来の御章を定めるも同様の重大なることであって、決して情実に捉われてはならない」と切々と閣老を説き、終に幕府も意を決し、前議を翻して日章を御国の総印となす可き事になりと、安政元年(1854年)7月11日、次の様に発令制定されました。

「大船製造に就ては異国船に紛れざる様日本総船印は白地日の丸相用候様仰せ出され候」

これが対外的に日本を表示する国旗発生の端緒と言えるでしょう。

 国旗祭祝詞文字入り-3.jpg

國旗祭はこの御事績をもとに昭和五年、当時の矢田收藏宮司は着任以来、日の丸発祥の地である本県にても国旗の意義、其の由来、取扱いに於いての不徹底さを遺憾に思い、御祭神の御功績を称え、また普及問題に努める事が報賽の責務であると、7月11日盛大な祭典が斎行されました。

 祭典風景大国旗掲揚-1.jpg

現在7月11日は、午前10時より國旗祭を斎行し、神饌は中祭に準じ九台とし、別に一台大国旗を奉献しています。最初に使用された国旗は塩瀬生地で正式数法(幅九尺一寸・長十三尺日の丸径五尺四寸六分)のものでした。

祭典の終わりには、御祭神銅像横の国旗掲揚台にて、君が代斉唱のもと国旗を掲揚し、国旗祭は終了します。

国旗は建国の精神・歴史を物語ると共に、将来国民が進むべき理想を反映してるのであります。それは、豊栄登る朝日を拝し日々清い、正しい、そして明るい、誠の心を持って将来の理想実現に邁進することであります。

また、私たちが日の丸を通して遠く神代の悠久の昔を回顧するとき、皇祖、皇宗を始め奉り我等祖先の努力に対し全身全霊の敬意と感謝を捧げる事こそが日本人の所以であると信じます。

 

 

        明治天皇御製

 

        「くもりなき朝日の旗に天照す 神のみいづを仰げ国民 」



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