鹿児島神社町 KAGOSHIMA SHRINE AGENCY

  • 神社名:若宮神社
  • 神社名カナ:ワカミヤジンジャ
  • 鎮座地:〒899-0501 出水市野田町上名6466
  • 例祭日:八月七・八日
  • 通称:
  • 旧社格:無格社
  • 神紋:
  • 摂末社:
  • 社宝:

御祭神

  • 島津常陸守忠兼公(シマヅヒタチノカミタダカネコウ)
  • 島津久光公(シマヅヒサミツコウ)
  • 山田昌厳(ヤマダショウゲン)

神事・芸能

昭和六十年代までは例祭に山田楽(県無形文化財)の奉納があった。

由緒

島津忠兼公は大永三年当時、野田の地頭職で、天草の領有であった長島を切り従える等、武功盛んにして兵術の達人であった。後、薩州家六代義虎公に殺され、その御魂椎は荒れ振るったので野田城に大天狗と称して祀った。しかし、霊気すさまじく万民を悩ましたので、山内寺の僧に霊を慰めさせ、若宮大明神として称え祀ったところ、世の中は穏やかに治まり、諸人は安心して暮らしたという。寛永十三年、十九代島津光久公は時の出水地頭山田昌厳に命じて再興したとされる。

野田村郷土誌(昭和49年刊)106~110頁より抜粋 義虎居城亀ヶ城にて讒言にて忠兼は騙し討ちにあい首は河原に晒され忠兼居城亀井新城の一族も脱出の途中に追っ手に捕捉され婦人幼児以下全員非業の死を遂げた。その後亀ヶ城内に怪異が続き、悪夢、亡霊の叫び、七、八月の頃には暴風雨が荒れ狂い、常陸風と恐れられた。また野田、長島など遺縁の地には悪疫が流行し、猛威をふるって蔓延したので人々みな忠兼の霊気の怒りとして恐怖を覚えた。のち義虎も忠兼の無実を知り墓を立て霊気を鎮め、野田郷山内寺の住僧、豪契法師をして祈祷させ、若宮八幡と尊称して祀った。その後寛永十三年(一六三六)第十九代藩主光久の命により、出水地頭山田有栄(昌厳)奉行となり、忠兼居城跡の新城址に神社を建立し、「若宮大明神」の称号を勧請した。(神社神殿内記録) また長島、阿久根の領民も忠兼の遺徳を慕い、その遺縁の地に若宮神社を建てて、霊位を安んずることになった。第十九代光久の時、吉満家の嘆願書により、藩主より神社左右の田および常陸介宅地を神社に寄進せられた。御神体は忠兼公坐像と神鏡の由で、毎年旧七月八日の祭神命日、いまは八月八日に例祭を行う。明治時代の再調査の時、村社移管が問題となったが当時の神職吉満家が祖先の因縁に対し、村社に移譲することに応じ得なかった由のようである。