菅原神社
- 神社名:菅原神社
- 神社名カナ:スガワラジンジャ
- 鎮座地:〒899-0135 出水市壮1367
- 例祭日:十一月二十五日
- 通称:生松天神(オイマツテンジン)
- 旧社格:村社
- 神紋:
- 摂末社:
- 社宝:
御祭神
- 菅原道眞公(スガワラノミチザネコウ)
由緒
縁起によると、左遷された菅公には尚追撃の手厳しく、薩摩はこの荘之津に着船し、ジョウス(城須)という老夫婦の家にて休憩した。老夫婦は公の容貌の非凡なことに驚き、織りかけの茣蓙を絶ち切り敷物に供えて茶をすすめ、飲み干すと二杯目を、更に追っ手を気にする公に三杯目をすすめ、これを飲み干す間に、檳榔の笠を被り白羽の矢を持った追っ手は通り過ぎ、難を免れたという。この故事から当社を勧請し、ジョウスの家をゴザテンといい、例祭の時は茣蓙を持ってきて神事に用いた。ジョウス家は昭和六年、江内に移った後絶えたという。神社の北西二,三百米の地に御手洗池、西三,四百米の地に御腰掛石があり、菅公持参の数珠・財布が宝物としてあったが、今に伝わっていない。
付近の人々は、往時を偲び今日でも朝茶三杯を飲むといわれ、以前は檳榔の笠を被らぬ事を例とし、白羽の矢を見るのも忌むといわれた。
また百日咳(オネギ)に効くというユリがあり、昔はその百合根で治ると、願成就にユリを持ってきて植える習わしであった。
生松(老松)天神・生松天満宮とも称す。
出水風土誌(大正4年刊,昭和51年復刻)217~221頁より抜粋 往古は社殿壮麗なるも、寛永二十年二月二十四日の夜に出火焼亡し、慶安二年地頭山田民部有栄社殿を造営するが、文政五年壬午十月六日またも火災に罹り、神体まさに焼けようとした時、燃えさかる宝殿より電光の如き光を発し一時下火になり、村人直ちに宝殿に飛び入り神体を出し奉る。人々神霊に感嘆し力を合わせて文政六年晩秋に社殿を再興したという。永禄八年乙丑八月二十六日の明け方、鬢髪白く白装束の神霊が現れて「女郎花眞萩さく野に秋はきて猶露ふかきゆふまぐれかな」の歌を詠む。この詠歌は永和四年戌午正月十九日建設の社後の碑にあり。以来、毎年正月十一日歌会を催し菅公詠歌中の某字を上句中に置いて三十一首を詠ずる。菅公千年祭の紀念工事として、明治三十一年十月十日社殿改築起工、翌三十二年五月十二日竣工し、同十六日遷座祭を挙行した。工事費は氏子の拠出金および隣村篤志者の寄付により一千円(現在の価値に直せば10000倍以上か)を要した。
*住所表示変更前は米ノ津町荘一三六七