鹿児島神社町 KAGOSHIMA SHRINE AGENCY

時期

八幡神社
昔は、毎年五月六日に行なわれていたが、明治四十一年から新暦の六月六日に行なわれるように改められた。
更に若者の流出、少子高齢化の影響もあり、普通の曜日では参加者が少なくなった為、昭和四十六年から毎年六月の第一日曜日に行なわれている。
日置八幡神社の御田植祭りの日の午後から、日吉町の「せっぺとべイベント」として、八幡神社裏の運動公園多目的広場で、日置八幡神社・吉利鬼丸神社に奉納する各地区の奉納踊りや、せっぺとべの披露などの催し物が行なわれるようになっている。

由来

この御田植祭りがいつから始まったかは不明であるが、日置島津家三代常久が文禄四年(1595年)八幡神社を日置総鎮守社と定め、御神田九畝(9アール)余りを寄進したことから、これ以後の事と推測できる。
あるいはそれ以前から存在していたのが、これより一層盛んになったのかもしれない。

「せっぺとべ」踊りの意味

境内や御神田で飛び跳ねて泥んこになる「せっぺとべ」は田植えがしやすいように(昔は実際に田植えが行なわれていたと伝えられる。)田んぼの土をこねらす意味と、田んぼの中の害虫を踏み潰す意味とがあり、神様に『こんなに一生懸命に土をこねらし、田植えをしますので、大豊作でありますように。』と祈願し、精一杯の元気で「せっぺとべ」踊りをすると伝えられている。

せっぺとべの歌 (田んぼの中で輪になって歌う)

なんの罰かよ 八幡馬場へ 八里隔てて 跳っけもどる
オイヤマカチャンゲで 儲けたる金は 大門口でソツ払って もうなかチヤンゲ
いくら麓の ゴユ(娘)さんだっても 末は 他人のものになる
親がうっかた(嫁)を 持たせん時は 夜は夜話 昼は昼ね
来るなら来てみろ 相手が違う まさか違えば 命がけ
親の意見と なすびの花は 千に一つの あだもない
お前さんさえ その気であれば わたしゃその木の 枝になる
せっぺとべとべ 白歯のうちに 歯黒してから とびゃならぬ
もとの白歯に するのは安いが 年の18 もどしゃならぬ
名残いじゃ名残いじゃ 今夜ずいの名残いじゃ 明日は鹿児島で 苦労する

奉納踊りとせっぺとべ衆

奉納踊りとせっぺとべ衆
八幡徒党《徒党(とど)=祭りに参加する集団》、諏訪徒党、中原徒党(昔は中原・榎園・日新で現在の日新)、山田徒党の四集団がある。近年は商工会青年部も町活性化の一環として参加している。
昔はこの他に、帆の港・中黒・草原・麓にも徒党があり、全部で七集団あった。
奉納踊りの歌の中に「七旗立てた、おさの目の数」とあり、七集団を歌ったもので現在も鳥居の前で歌われる。娯楽の少ない昔の事で、参加集団も多く、近郷では最高の人出で賑わったと伝えられている。
御田植祭りに神社に奉納する踊りは、各集団別に(現在は自治公民館別)棒踊り・虚無僧踊り(八幡)・笹踊り(諏訪)・鎌踊り(日新・山田)があり、昔は15歳の元服の青年男子で編成し踊っていたが、近年は過疎や少子化の影響で、小学校低学年からの編成になっている。

虚無僧踊りの歌(歌う場所で、歌詞が異なる)

  • 鳥居の前
    七旗 立てた おさの 目の数
  • 拝殿正面
    今こそ 前は 神に 参詣
  • 拝殿北側
    おせろが 山は 前は 大川
  • 御神田
    一本 苗は 米が 八石
  • 八幡橋
    清めの 雨は バラリと 降り通る
  • その他
    とっしゃごの 花は 揉めば 手に染む
    焼野の きじは 丘の 背に住む
    山太郎 がねは 川の 瀬に住む
    霧島 松は 黄金の 花咲く
    一枝 折れば 八重 栄える

せっぺとべ衆は、八幡神社氏子の15歳以上35歳以下の青年男子で組織構成し、職業や宗教による制限はなく、その地域の出身であれば、鹿児島市や近郷近在の青年は義務的に帰省し参加していた。
現在は公民館活動の維持の一つとして、年齢制限は無い。特に最近は、保育士の研修目的で女性の参加もある。(以前は男子の祭りであった。)

「看板」と「しべ」

「看板」と「しべ」
各集団の印として団旗を持っているが、これを「看板」と称している。看板の文字は、それぞれ集団を表す文字が染め抜かれており、各集団ともできるだけ真っ直ぐな10数mもの長い唐竹を選び、先端にこの看板を付けている。これを「団旗竿(だんきさお)」または「看板竿(かんばんさお)」と言っている。
「しべ」づくりのことを「しべ起こし」と言い、祭りの一、二週間前につくる。
材料は赤松(近年は赤松が少ないので黒松を使っている。)であり、長さ85㎝(二尺八寸)、幅3㎝(一寸)ほどの角材をカンナで薄くすき起こし、竹へらでそりを取り、四枚をくくり、先端15㎝ほどを食紅で染める。
集団によって染め色が微妙に違い、集団のオリジナルカラーにもなっている。
この「しべ」を看板と同じく、10数mの唐竹の先端につけている。これを「しべ竿」と言っている。

祭典後、各集団はそれぞれ町内の公共施設や民家を踊って回る。この際「しべ」を魔よけとして各家に配るのである。また、この「しべ」を飾っておくと「蛇が家の中に入って来ない」と言われ、どこの家でも床の間に飾る習わしがある。

御田植祭りの形態

  • 御田植祭りの形態
  • 御田植祭りの形態

祭りの前日には前夜祭が行われ、集団の印である看板竿を先頭に、しべ竿・踊り子と行列を組み、たいまつをかざし、大川の八幡橋へ出向き、大川の水にしべの先をちょっとつけて清めた後、神社に参詣し踊りを奉納する。
祭りの当日、祭典が始まる頃になると、団旗竿・しべ竿を先頭に神社への階段の下に、それぞれの集団の奉納踊りの踊り子と、せっぺとべ衆が順次集まり参拝する。
祭典が進むと同時に、拝殿前で各集団の奉納踊りが順次奉納される。
神社での式典が終わると、いよいよ行列を組み御神体は御神幸、御神田へお下りとなる。
御神田に着くとすぐ、団旗竿・しべ竿をそれぞれ力自慢の者が一人で竿を立てて持ち、力技を競う。
竿が倒れかかると、見物の観客から喚声が上がる。
御神田では祭壇が設けられ、お供えをして「今年も豊作でありますように」と祭典神事が行なわれる。
この祭典が始まる頃にせっぺとべ衆の本番舞台となり、次第に人数も増え勢いを増し、焼酎を回し飲みし、頭から泥んこになり、誰であるか分からないような状態で、お互い肩を組み合って飛び跳ねる。
これが「せっぺとべ」である。

  • 御田植祭りの形態
  • 御田植祭りの形態

本来奉納踊りが主体であるが、時にはせっぺとべ踊りの方が主体の如き様相を呈する。
元気よく勇ましく飛び跳ねる姿は壮観であり、奇習と言うより、昔の素朴な農民達の楽しい慰安の一日でもあったのではないだろうか。
御神田での祭典が終わると、御神体はお下りと同じく行列を組み、神社にお帰りになる。
到着後に還幸祭を行い、お田植え祭の全ての神事を終了する。

八幡神社

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