鹿児島神社町 KAGOSHIMA SHRINE AGENCY

曽於市大隅町岩川に御鎮座の八幡神社では、毎年11月3日~5日の三日間、県下三大祭りとも称される「弥五郎どん祭り」が盛大に挙行されます。

御由緒

三国名勝図会
岩川八幡神社は、万寿二年(1025)、第六十八代・後一条天皇の御代、京都石清水八幡宮から勧請創建されたと伝えられています。
「三国名勝図会」には、「弥五郎どん祭り」について、「祭祀10月5日、大人の形を作りて先払とす。身の長け一丈六尺、梅染単衣を着て、刀大小を佩び、四輪車の上に立つ」と記されています。
江戸時代の当時から、祭りの姿や弥五郎どんの形がほとんど変っていないことが分かります。

御祭神

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  • 八幡神社_御祭神

弥五郎どん

弥五郎どん
「弥五郎どん」は、身の丈一丈六尺 (4m85㎝)の大男。二十五反の梅染の単衣袴を着用し、一丈四尺(4m24㎝)と九尺四寸(2m85㎝)の大小刀を腰に佩び、一丈八尺(5m40㎝)の鉾を持ち、車上に立って威風堂々、その雄姿は四方を圧し、泣く子も黙ると言われています。
弥五郎どんは大きな巨人です。弥五郎どんが何者なのかについては、様々な説があります。一般的には、朝廷に抵抗した隼人族の首領とも、朝廷側の大臣・武内宿祢とも言われています。弥五郎どんは、伝説と史実が混交しており、時代や人により各様に説明されていると言えるでしょう。
しかし、伝説の巨人・弥五郎どんに対する人々の敬愛の念は並々ならぬものがあります。弥五郎どんは健康長寿の神様、そして何より大隅の国の守護神、大隅隼人の守護神として、人々の厚い尊崇を受けています。

弥五郎どん祭り

触れ太鼓

11月3日、午前1時、触れ太鼓とともに弥五郎どん起こしが始まり、「弥五郎どんが起きっど」と町中に触れ回ります。

弥五郎どん起こし

午前2時、弥五郎どんの組み立て開始。
午前4時、弥五郎どん起こし(弥五郎どんに綱を付けて引き起こす)。午前6時、弥五郎どんは車上に立ち上がり、ギョロリ眼で四囲を睥睨(へいげい。睨み回すこと)します。

弥五郎どん起こし

神事(例大祭)・弥五郎太鼓・浜下り(御神幸)

午前中の神事(例大祭)と弥五郎太鼓奉納の後、午後1時から浜下り(御神幸)に出立。子供たちが引く弥五郎どんを先頭に、宮仕(みやだち)・前行・御神輿・供奉と神幸行列が続きます。
宮仕とは石清水八幡宮から当社を勧請した時、随行してきた十人あまりの社人のことで、浜下りで幟旗・威儀物を捧持して御神輿の先導役を務める栄誉は、今でも宮仕の末裔が担っています。
午後2時ごろ、御旅所に到着。地域の平安と繁栄を祈願する神事を行った後、帰路に着き、見物客が溢れる中を押し分けながら、午後4時ごろ八幡神社に帰着。
拝殿前に5日までの3日間、安置されます。

弥五郎太鼓

弥五郎太鼓
「弥五郎どん祭り」で奉納される太鼓は、正式には「巨神伝説太鼓衆・大隅弥五郎太鼓」と言います。
昭和56年、「弥五郎どん祭り」をより一層盛り上げようと、「やごろうどん浜下り随行隊」として結成されました。
社会人のみの「大隅弥五郎太鼓・本隊」、社会人・高校生による「絆」(きづな)、小中学生の「童」(わらべ)、の3チームで活動。「巨神やごろうどん」の荒々しさを表現した「巨人」(おおひと)のほか、「寄せ太鼓」「うかれ太鼓」「浜下り」「DONⅡ」(ドンツー)など、全て「弥五郎どん祭り」をイメージしたオリジナル曲です。
11月3日の「弥五郎どん祭り」では、八幡神社での奉納太鼓、「浜下り」での総勢80名による「弥五郎どん」の先導や、境内での舞台演奏等を、チーム全員が一丸となって熱演します。
また、「弥五郎どん祭り」のほか、市内外への祭りイベント等への出演、福祉施設の慰問などでの演奏活動も行っています。

巫女舞

巫女舞
「弥五郎どん祭り」の呼び物の一つは「巫女舞」です。
天女の羽衣のような千早、白衣、緋袴、花冠をかぶり、優雅な雅楽に合わせて舞う「豊栄の舞」(とよさかのまい)。
舞姫は地元の小学生、中学生、高校生が務め、御神前に奉納する祭祀舞を、清々しく、そしてあでやかに奉納します。

市中パレードと各種イベント

市中パレードと各種イベント
「弥五郎どん祭り」が近づくと、町中に注連縄が張り巡らされ、当日は神社前から県道沿線両側に露天市が所狭しと立ち並びます。
また、岩川小学校、大隅中学校、文化会館、中央公民館などを会場に、相撲、剣道、柔道、弓道、空手などの武道大会や、演芸大会、市中パレードなど、各種の行事・イベントが賑やかに繰り広げられます。
地元はもとより、県内外各地から大勢の参拝客、見物客が詰めかけて、岩川の町はお祭りムード一色に包まれます。

浜下り(御神幸)の変遷

浜下り(御神幸)の変遷
岩川八幡神社は古来、中之内字川崎(元八幡)の地に鎮座していました。
その頃の浜下りは、神社から一町(約109メートル)ほど離れた前川と菱田川の合流地点までのものでした。
また、昭和30年代には、市中パレードを行うのに、街路の電線・電話線を切断しなければならず、莫大な費用がかかるため、御神幸はすぐ隣の岩川小学校の校庭までになっていた時代がありました。

弥五郎どんの衣装を縫う地元女性部(上衣と袴を4年毎に縫う)

地元女性部
弥五郎どんの衣装の大きさは何と二十五反。4年毎(閏年)に新調します。これを二十人近くの縫い子が10日ほどかけて縫い上げます。
弥五郎どんは梅染めの衣装を着ています。梅の木には霊力や再生力があると言われています。
梅の液で染めた着物を着せた弥五郎どんを、狭い拝殿から四苦八苦して広い境内に引っ張り出して、一年に一回、再生させることにより、人々は五穀豊穣や無病息災を願って来ました。

弥五郎三兄弟

  1. 岩川八幡神社(鹿児島県曽於市大隅町岩川)※写真中央
  2. 的野正八幡神社(宮崎県都城市山之口町)※写真左
  3. 田ノ上八幡神社(宮崎県日南市大字板敷)※写真右

この三つの八幡神社にはいずれも「弥五郎どん」がいて、「弥五郎三兄弟」と呼ばれています。

弥五郎三兄弟

「弥五郎三兄弟」は三人とも巨体で、周辺を神幸して回ることもよく知られています。
一説には、山之口を長男、岩川を次男、日南を三男といい、親縁関係であるとされています。

大きな巨人。「弥五郎どん」は何者か?

「弥五郎どんは何者か?」 この問いほど、人々の興味や関心を惹きつけ、想像力をかき立てるものはありません。

隼人族の首領説

弥五郎どんは、一般的には、朝廷に抵抗した隼人族の首領と言われています。
養老四年(720)の隼人抗戦の時、大隅国守陽侯史麿(やこのふひとまろ)が殺害されますが、この時の隼人族の首領が大人弥五郎と呼び伝えられています。

武内宿祢説

また、弥五郎どんは、朝廷側の大臣・武内宿祢であるとも言われています。
武内宿祢は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇とともに岩川八幡神社の御祭神の一人であり、これらの天皇に仕えた武内宿祢が御神幸の先払(先導役)を務めているという説です。

西郷どんと弥五郎どん

我が国史上、最大の英雄と言えば、郷里・鹿児島が生んだ西郷隆盛でしょう。この西郷隆盛と弥五郎どんの間には多くの共通点、類似性があります。
「養老四年の隼人族の反乱」と「明治十年の西南役」は、どちらも中央政府と南九州の反政府勢力の戦いであり、いずれも南九州側の敗北に終わりました。そして、その首領であった弥五郎どんと西郷どん(西郷隆盛)は二人とも悲劇の最後を迎えました。
しかし、弥五郎どんはその結果、御霊信仰により霊神として神格化し、更に、巨人信仰や放生会と相まって「弥五郎どん祭り」となり、大隅、日向地方の巨人伝説信仰として後世に生き続けることになりました。
一方、西郷隆盛も鹿児島士族王国の首領として巨人視され、本人の体躯が巨大であったことと相まって、東京の上野公園には着物姿の銅像が、また郷里・鹿児島の城山下には陸軍大将姿の銅像が立ち、更に南洲神社に祭られています。
まさしく、弥五郎どんは近代では西郷どんに該当し、西郷どんは古代では弥五郎どんに該当する、と言ってもよいのではないでしょうか。

人々の心の中に生き続ける「弥五郎どん」

岩川小学校の校標は「弥五郎どんのごっ」(弥五郎どんのように強く・優しく・そして大きくあれ)です。
「ウドさあ」(巨大な人)と呼ばれた西郷どん(西郷隆盛)に対する人々の敬愛の情と同じように強く深く、大きな巨人「弥五郎どん」に対する信仰は、干天の慈雨のように人々の心にうちに沁みこんでいるのです。

岩川八幡神社

〒899ー8102 鹿児島県曽於市大隅町岩川5745
℡ 099(482)4459