さつま町の神社に伝わる特殊神事
さつま町の旧薩摩町内には、現在六社の神社が鎮座されているが、何れも郷土色豊かな民俗芸能や一風変わった神事が見られる。今回はその内の幾つかをご紹介させて頂く。
稲富神社の鷹踊
さつま町求名に鎮座。かつての求名村の鎮守神で、主祭神は豊受大神。現在も求名地区の中心的な神社である。この神社で特筆すべきは「鷹踊(たかおどり)」と呼ばれる伝統芸能である。これは藩政時代に行われた領主の鷹狩の様子を踊りとしたのが始まりで、稲富神社の祭礼や領主の領内巡視の際に踊られ、武運長久と領内安寧、そして領民の安全と狩猟の際の獲物の鎮魂を祈ったという。この鷹踊は主に旧祁答院地方(さつま町の大半と薩摩川内市の一部)に「鷹踊り」や「鷹刺踊り」として分布しているが、求名の鷹踊から広まっていったといわれている。
踊りの仕組としては領主役(男性)十名、餌差役(女性)十名で行われ、領主役は陣笠を被った黒紋付袴姿で右手に扇子、左手に木製の鷹を持つ。一方の餌差役は笠を被り襷がけの絣着物姿で約六十センチの細い竹棒を持つ。楽は三味線一人に太鼓一人で、領主役、餌差役がそれぞれ並び列を作る。この際に先駆とよばれる熟練者が先頭に立ち、初めに領主役、次に餌差役が交互に踊り、最後に領主役、餌差役が同時に踊りながら先頭より次々に列を外れ、最後に後駆とよばれる二組が残って踊りの締めくくりを行って終了となる。このように格調の高く見応えのする踊りで、昭和三十六年には鹿児島県指定無形民俗文化財に指定された。県指定無形民俗文化財としては加治木の太鼓踊や加世田の士踊などと共に第一号であり、旧薩摩町時代では勿論、さつま町となった今も町内唯一の県指定無形民俗文化財である。
残念ながら過疎化や後継者不足により現在では稲富神社には奉納されなくなっており、主に地域の小学校の運動会で児童たちにより披露されている。
大石神社の兵児踊
さつま町中津川に鎮座。戦国時代に旧祁答院地方を領した島津左衛門督歳久を主祭神とする神社で、左衛門督の唐名から「金吾様」と呼ばれる。中津川地区の中心的な神社で、この神社の秋季例大祭は別に金吾様祭と呼ばれ、金吾様踊りと総称される様々な奉納踊りが披露される。この為、祭礼当日は町内は勿論のこと、県外からも多くの人が集まり普段静かな境内が大変な賑わいをみせる。この金吾様踊りと呼ばれる踊りの中で特に人気があるのが「兵児踊(へこおどり)」という踊りである。出水を領していた薩州島津家が文禄年間に廃絶すると薩州家の一族郎党武士達は四散し、祁答院地方にまで逃れて帰農するものも多かったという。その際に武士達が苦しい生活の中で心を慰めるために歌い踊ったのが兵児踊の始まりという。
踊りの仕組として先ず踊り手は十数名の男性で、頭に棕梠皮を被り茶筅髷に結い、白襦袢に棕梠皮の脚絆をつけ白粉や墨で顔に化粧をした姿である。また腰には約二メートルの木太刀を差し二列縦隊に並び、踊り手たちは拍子木の音に合わせて歌い飛び踊る。盛り上がった観客からは「飛べ、飛べ」といった具合に囃し立てられ、踊り手もそれに必死になって応えるといった具合で、勇壮且つユーモラスな踊りである。
また大石神社にはかつて「大念仏踊(だいねんぶつおどり)」と呼ばれた大名行列風の壮大な踊りが奉納されていた。大念仏踊は踊りの初めに「南無阿弥陀仏」と唱えるのがその名の由来で、古文書等によると寛永年間に再興とあるので、それ以前よりすでに踊られていたらしい。元々は七年に一度奉納される踊りであったが、明治中期ごろよりは数十年に一度奉納されるようになったという。これはこの踊りに総勢五百名程の人員を要し、各員の装束や調度品の支度など莫大な経費が掛かった為で、大念仏踊の全てを通しで踊ったのは昭和三十一年が最後の記録となっている。以後は大念仏踊の中の一部を金吾様踊りとして披露している。近年はこの踊りを復活させようとの声も高まりつつある。踊りの仕組は奴や槍持、箱持、足軽、徒歩侍、鉄砲侍、小姓、草履取、太刀持、笠持、医者、薬持などまさに大名行列さながらで、行列の中ほどに神社の御神体を入れた御駕籠が進む。この行列に続き棒打舞(所謂、棒踊り)、地割舞(甲冑をつけ弓を持って踊る)、猩々舞(赤毛笠を被って踊る)などの各種踊りが踊られた。
白鳥神社の鉤掛
さつま町中津川に鎮座。かつての中津川村の鎮守神で、祭神は日本武尊。この神社には戦前まで「鉤掛(かぎかけ)」と呼ばれた珍奇な行事が伝えられていた。これは祭典時、神職が参列者をお祓いしようとする際に、長い柄の木鉤を神職の足に引っ掛け引き倒すというものである。この際には神職も用心しているので、中々足に木鉤を引っ掛けることが出来なかったというが、見事に神職を引き倒した年は豊作になるといわれていたらしい。元々は大人も子供も隔てなく神職を引き倒そうとしていたが、大人は力も強く装束を破損させたりするので、のちには子供の代表者一人が鉤掛を行うよう改められたが、この鉤掛も終戦とともに絶えてしまったという。鉤掛を行った氏子の古老に当時の話を聞いてみると「神主さんをはんとかすんのはおもしてかった(神主さんを転ばすのはおもしろかった)」と満面の笑みで答えられていた。