鹿児島市南洲神社の秋季大祭「西郷どんの遠行(えんこ)」
由緒
明治10年9月24日、城山の陥落によって西南の役は終わりましたが、戦後まもなく、南洲翁をはじめ戦没者の英霊を祀るべき祠(ほこら)を建てようという議が高まり、同13年1月1日に至って神社の前身ともいうべき参拝所が出来上がりました。
南洲翁以下まだ賊名も除かれず、しかも戦災によって市街は廃虚と化していた当時の客観事情を考えるとき、翁へのひたぶるな敬慕の念一切の障害をこえて結実したものと言うほかはありません。明治22年2月、賊名を除かれ、翁には正三位を追贈の御沙汰がありました。
さらに大正2年10月、木曽御料林の桧材で建築した銅板葺の社殿が竣工、当時はこれを南洲祠堂と呼んでいました。こうして県民の熱望でありました神社創立への機運がようやく熟し、大正11年6月、ついに南洲神社という社号が許されました。次いで、昭和2年9月には桐野利秋以下諸将士の神霊を祀る摂社が同じ境内に建てられ、同年10月には神社50年祭が盛大に行われました。昭和20年7月、戦災に遭い、本社、摂社、社務所等ことごとく炎上しました。その後、幾多の苦難を経て同32年9月本殿、44年4月社務所、45年12月拝殿と、次々に復興、今日に至りました。なお、例祭は、御祭神の御命日にあたる9月24日に定められております。
南洲墓地
南洲神社に隣接して西南の役戦死者のうち、2023名を葬る約750基の墓碑が並んでいます。南洲翁を囲むように、桐野、村田、篠原、永山、池上、桂、辺見、別府、貴島らの諸将をはじめ、若冠14才の少年や児玉5人兄弟、あるいは遠く山形県から参加した伴、榊原両青年の墓など累々として並ぶ姿は、全国どこにもみられない偉観でありましょう。開戦当時の県令大山綱良の墓、また政府に任命された官吏でありながら、当時賊軍であった薩軍諸将士をこのように丁重に葬った第2代県令岩村通俊の記念碑も同境内に建っています。
セゴドンのエンコ
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毎年9月23日(秋分の日)に「山坂達者を目指して、老いも若きも幼きも、さあ歩こう。お彼岸に西郷さんのお墓参りをしよう。」を標語に、受付8~10時。出発地点(加治屋町誕生地または武町西郷屋敷)でスタンプ紙をもらい随時出発。
甲突川畔を北上→護国神社近くの座禅石→夏蔭城跡→城山頂上の本営跡→西郷洞窟→南洲翁終焉の地→南洲神社(南洲墓地・南洲顕彰館)
までスタンプを押しながら、8km1万歩を歩きます。
1、誕生地、西郷屋敷跡
徳川幕府の封建制度を打破し、王政復古の明治維新を切り開いた最高の功労者である西郷隆盛翁(吉之助・稚号一南洲)は、文政10年12月7日、この地に生まれた。
なお、西郷屋敷には、明治2年より居住。西南の役で焼失し、明治13年弟の西郷従道が再建したが、昭和52年老朽化し撤去された。
2、座禅石と無参禅師供養墓
南洲翁や大久保先生は、若い頃毎朝未明に起きて甲突川畔を歩いて草牟田まで通い、無参禅師について禅を学んだ。無参禅師は福昌寺の住職であったが、草牟田誓光寺に隠居し、嘉永4年70才で逝去した。座禅石は南洲翁らが座禅修業した石である。
3、夏蔭城跡
城山裏手の高台で、四方の丘を見おろす要害の地であったが宅地開発のため壊され、夏蔭頂上にあった西南の役記念碑を現在の地に移した。城山攻防激戦の跡である。
4、城山本営跡
西南の役による熊本城攻略に失敗し、人吉、宮崎、延岡に転戦、刀折れ弾丸尽きながら官軍の包囲網を突破して、南洲翁以下370名が城山に帰り、ここに籠城した。
5、南洲翁洞窟
この辺一帯は、南洲翁以下薩軍諸将の洞窟のあった所で、翁はこの洞窟で寝起きされた。
城山陥落の前夜23日の夜は、月光の下で、洞窟前の広場では訣別の宴が開かれ、6万の官軍に包囲されていながら詩や琵琶歌などを吟じ、士気盛んなものであった。
6、岩崎谷終焉の地
9月24日午前4時、官軍の総攻撃が開始され、少数の兵で守っていた薩軍の陣地は次々に破れた。南洲翁は、生き残った者を従えて弾丸雨飛の中を最後の陣地である岩崎谷口の方へ進まれた。陣地近くまで来られたとき、腹と太ももに弾丸が当たった。翁は、その場にひざをつき、襟を正して明治天皇のおいでになる東の方角に向かって礼拝され「晋どん、もうここでよか」と言われ、別府晋介に首をはねよと命じた。
南洲翁の年齢は、満49才であった。
7、南洲墓地、南洲神社、西郷南洲顕彰館
顕彰館は、昭和52年の百年祭記念事業として昭和53年に建設したもので、世界の偉人大西郷の生い立ち、思想・偉業が、青少年に解りやすく展示してある。