与論島の芸能「与論十五夜踊り」
由緒
与論島が鹿児島県に属する理由は、西暦1600年の関ヶ原の戦いで敗戦した島津氏が南島征伐に転換したためである。当時、琉球王朝は大陸の宋と交易していたため、手前の与論まで薩摩藩に組み入れ、沖縄本島以南は、貿易の利権を得る目的で独立国家として残したのである。
琴平神社は文政7(1824)年、高千穂神社は明治4(1871)年の創建でかなり新しく、琉球の影響が大きかった昔から地元ではシュニグ拝所(ウガン)として拝まれた。拝所は建物がなくサンゴ石をピラミッド状に積み上げた祭場で、明治になって十数ヶ所の拝所を辺後地(ピグチ)拝所の傍らに合祀して地主神社を建立、大東亜戦争後の昭和30年に琴平神社の境内社として登記。島の守り神(大地主之神)を祀り永禄4(1561)年尚眞王治世の世之主花城真三郎が琉球舞踊と大和踊りを融合させ島中安穏・五穀豊穣・無病息災の祈願と島民との親交を図って創始したのである。
与論十五夜踊りとは・・・
与論十五夜踊りとは、室町時代の永禄4年(1561年)に創作され、それ以後四百三十余年踊り継がれてきました。この踊りは、1番組と2番組で構成され、一番組の踊り言葉は室町時代の狂言等から取材し、その踊り方は本土風のものとなっております。
二番組の踊り言葉は与論島をはじめ奄美諸島や琉球諸島から取材し、その踊り方は琉球風の舞踊を取り入れております。
二番組
琉球踊り、服装は全体的に黒に近い紺染めの衣装で帯は幅広を使用し後ろにティサーギと言う手拭を下げる。頭にシュパと言う長いスカーフのような頭巾を巻いて顔面を覆う。手には日の丸の扇子を持つ演目と持たない演目があり、足は黒足袋を着用し、全て同じ衣装で演じる。
一番組
大和狂言・寸劇、服装は全体的に白装束で黒足袋、演目によって面を付け替えたり扮装等が変化、与論十五夜踊りは日本本土と琉球諸島の芸能史上貴重なものとされ、各大学や教育機関等で研究されつつある。
演目
雨賜り(アミタボーリ) 二番組一番組j合同、一度吹いふて(イチドイウテ) 二番組・扇踊り、三者嚫子(サンバスー) 一番組、この庭(コノニワ) 二番組・扇踊り、二十四孝(ニジュウシコウ)一番組、今日の福らしゃ(ヒュウヌプクラシャ) 二番組・手踊り、大熊川 (オオクマガワ)一番組、町奉行(マチブギョウ) 一番組、君様(キミサマ) 二番組・扇踊り、頼朝公(ヨリトモコウ) 一番組、獅子舞(シシマイ) 二番組、長刀(ナギナタ) 一番組、六十節(ロクジュウブシ) 二番組・一番組合同、沖泊り(オキドマリ) 二番組
平成23年9月11日・12日には与論十五夜踊450周年記念行事も開催されました。
その様子の写真をいくつか掲載致します。