薩摩川内市 新田神社「武射祭(むしゃさい)」
鹿児島県薩摩川内市に鎮座する新田神社は、天津日高彦火瓊瓊杵尊を御祭神とし、神亀山と呼ばれる小高い山の上にあり、宮内庁書陵部が管理している瓊瓊杵尊の御陵、可愛山陵(えのみささぎ)と一体になった形状をなしている。薩摩川内市は、九州第二の大川である川内川の下流域に位置し、薩摩国の国府や国分寺が置かれた歴史ある地域である。
沿革
現在、新田神社の存在が史料で確認できる最も古い年代は長和2年(1013)で、当時は新田宮と称しており、薩摩守藤原頼孝が水田を寄進したことが記されている。平安時代に書かれた和名類聚抄には、国府所在地とされる高城郡内六郷の一つに新多郷の記載があることから、社名もこれに基づいているものとされ、平安時代中頃になると八幡神を勧請、宇佐弥勒寺を領家に、石清水八幡宮を本家とする八幡新田宮が成立し、紀氏が下向して神宮寺と十二支坊、四十八社家等の神官社僧組織を形成していった。鎌倉時代に入ると、惟宗氏が八幡新田宮執印職と国分寺留守職に任じられ、紀氏は権執印職となり、江戸時代の幕末まで相伝していくことになる。鎌倉時代後期に起こった蒙古襲来の際には幕府が各国の首社に命じた異国降伏の祈祷を執り行ったことにより開門社(現枚聞神社)と国一宮を巡って争論が開始され、薩摩国守護であった島津氏は幕府の機関に裁定を求めている。結果的にはこれより後、八幡新田宮は国一宮を冠するようになった。八幡神の国家鎮護神としての役割、武神的要素も然ることながら、鎮座地が国府に近く、国司神拝が行われていた史料があり、既に総社としての役割を担っていたことが有利に働いたものと思われる。天正15年(1587)豊臣秀吉による島津領侵攻の際には、豊臣方の軍勢が薩摩川内の地まで押し入り、危うく兵火に襲われそうになったが、八幡新田宮の社僧によって諭され、これにより乱暴狼藉を禁止する高札が掲げられ焼失を免れた。江戸時代には薩摩藩より約九百石の知行をうけ、歴代藩主より崇められた。明治時代に至っては、社名を新田神社に変更し、明治18年に国幣中社となり、大正3年には可愛山陵が宮内省(現宮内庁)の管轄に移管され、大正9年に皇太子殿下(昭和天皇)が御参拝されてより今日まで皇族の方の参拝が九度に及び、薩摩国総鎮守として崇敬されている。
武射祭
鹿児島の伝統行事「七草参り」の行われる正月7日、新田神社においては古式ゆかしく武射祭が執り行われる。
本祭典の起源は定かではないが、新しい年の天下泰平、五穀豊穣、悪疫退散、開運招福を祈念する特殊神事で、宮中の射礼の流れをくみ、史料の中に鎌倉時代、流鏑馬を行っていたことが記載されており、一説には600年以上の歴史があるとされている。
祭典の流れは本殿での神事のあと勅使殿前にうつり、宮司、神人(じにん)1名、武人2名、みくに幼稚園の園児数十名が弓矢を持って祗候、次に先祓、本殿外陣より取出した伝世の神鉾捧持者左右2名、直径1メートル50センチにおよぶ大的「七日的」捧持者左右2名の順で列をなし社殿の周囲を巡り、勅使殿前を通過する際には特に鐘と太鼓を打ち鳴らす。その間楽を奏し同じように3回巡ったあとは鐘と太鼓の合図で今度は先祓、太鼓、笛、鐘、鉾、的、宮司、神人、武人、みくに幼稚園の順に行列を組み立てて表参道322段の石段を降りる。
この間も笛、太鼓による道中楽がある。進行途中境内中段にて古儀により止立、鐘、太鼓を鳴らし再び祭列を進め石段両脇の門守神社に留まり宮司以下祗候する。候する間、先祓、鉾持、的持は表参道蘭桂馬場(八幡馬場ともいう)の射場に向かい、予め竹を左右の柱にして、薦をかけて設けてある射場に鉾を立て、的を備付け整え、武射の儀がはじまる。
先ず毎年手作りされる梓弓と竹製の神矢を持った宮司と神人が射場に進み、宮司が神矢をつがえて次の二首を奉唱する。
梓弓射奉るもののふの 心を神も受けざらめやば
放つよりはずれざりけり梓弓 吾が射る先のあてどころなり
その後3楯づつ神人と交互に計12本を奉射する。
その後退いて表参道降来橋の上でみくに幼稚園の園児と入れ替わり次に園児が的を射る。小さい弓矢を持った7歳になる園児たちは 男児は鉢巻に裃姿、女児は鉢巻に緋袴の装いで1人につき2本奉射する。りりしい出で立ちで矢を射て、的に命中する度に見物に訪れた人たちからは歓声が上がる。
園児が射た後は降来橋の上で今度は武人と入れ替わり、最後に武人による奉射が行われる。