鹿児島神社町 KAGOSHIMA SHRINE AGENCY

由来

鎌倉時代の弘安5年(1282)京都石清水八幡宮の社家であった平山了清(りょうせい)が八幡宮の分霊を勧進し、多くの部族873人を引き連れて、帖佐郷に下向。新正八幡宮創建し、平安城を構築した。
当時国分正八幡宮領の内、帖佐の大部分が社家の留守刑部の預所であったが、平山了清が代わって領知することになった。浜下りは帖佐へ下向した了清の京都からの苦労を偲び、松原海岸の浜まで巡行する御神幸祭である。時代は下り平山氏と島津氏が不和・敵対関係となり9代藩主島津忠国が弟の季久(すえひさ)に命じて、長禄2年(1458)平山氏を討伐させた。平山氏は指宿に移され、以来帖佐は豊州家季久を初代として後代続いた。平山氏滅亡から新正八幡宮の祭事は途絶えていたが、17代藩主島津義弘帖佐在城の時(1595~1605)、関ヶ原合戦から無事に帖佐に帰国出来た御礼として「浜下り・御神幸祭」を再興した。
松原海岸の浜の御門神社に御旅所を設け盛大な神幸を行っている。
時代の盛衰と共に伝統の浜下りも度々途絶えてきたが、その度に再興され、今日まで引き継がれてきている。平成4年には武者行列の最中、馬上の神官の落馬事故があり、その後暫く休止した経緯もある。主に武者行列を主体としており、時代祭り的な要素をもち武家や公家の衣装を着用して行列を成す。(総勢70名)

浜下り保存会の設立と無形民俗文化財指定

地域の伝統文化の継承と地域の活性化を図るため、平成12年地区公民館が中心となり、先ず「帖佐校区ふれあい祭実行委員会」を立ち上げ、二つの行事即ち八幡神社浜下りと古くから伝わる帖佐十九日馬踊りを復活させた。平成18年、浜下り保存会の結成と旧姶良町教育委員会の文化財補助事業に認定され、若干の予算も付加し、今日に至っている。

現在の状況

浜下り保存会を中心に活動しているが、一般有志並びに役員関係者の高齢化も進み、協力者の確保に苦慮している。そこで以前から小学生を始め中高・青壮年部が中心となり実施している。祭の衣装・装束は八幡神社に保存している物を中心に一部リースもあるが新規に計画的に甲冑等を購入し充実している。

巡行実施日と巡行コース

毎年11月第3日曜日を予定。午前7時神事斎行。義弘公屋形跡である稲荷神社の境内を午前9時30分出発。途中2か所で休憩を取り、目的地の御門神社まで約7㎞を巡行。交通量の増加に伴い交通安全協会の協力を得て事故防止に努めている。昼前には自治会の奉仕による炊き出しのおにぎりにて昼食を取り、帰りのお上りはマイクロバスにて移動し、午後2時頃の予定で稲荷神社に帰着する。

今後の活動と課題

これからの活動を更に充実するには、先ず伝統行事の啓蒙をどのように図り協力体制を構築していくかである。それには地域住民一人一人がこの活動の意義を主体的に受け止め参加することである。その方策の一つとして、所謂コミュニティー活動の一環として位置づけ、地域全体の活動として盛り上げることである。青少年育成として小・中・高校生達に関わらせていくことも大切である。また次に7㎞にも及ぶ武者行列の道中の安全の確保である。昔から伝わるコースは現在では交通量も多く危険度が高いため、安全体制の充実とコースや距離を再度見直す必要がある。次に武者行列の装束・用具の充実を図ることである。鎧・甲冑は現在8領しかなく、計画的に購入して、今後は20領位に揃えていきたい。
最後にこの伝統行事が今後益々充実・継承できるように願っている。

宮司 鮫島 幸四郎

  • 境内地での出発祭
  • 出発直後
  • 武者行列(JAスタンド前)
  • 御門神社境内の一行