鹿児島神社町 KAGOSHIMA SHRINE AGENCY

精矛神社 宮司 島津義秀

一、三百五十年祭の折

 精矛神社はご祭神に、第十七代太守島津義弘公を祀る旧県社です。

 平成三十一年、元号が変わって令和元年となる年、折しも我が先祖 第十七代太守島津義弘公の没後四百年を迎える年となりました。

 自分は五十年前の没後三百五十年祭の折に祖父母、両親とともに参列しており、当時は島津家ご本家を始め、御一門家、各分家他行政の長、地域の有識者が多数参列されていました。奉納演武に地元「青雲舎」の皆さんによる野太刀自顕流、ならびに保存会の皆さんによる加治木町太鼓踊りなどゆかりのあるものが奉納されました。

 

二、島津義弘公の生涯

 島津義弘公は天文四年(一五三五)伊作の亀丸城にて、父第十五代貴久公と母入来院弾正の女子との間に次男として産まれました。兄に義久、弟に歳久、家久がいました。初め、又四郎と称し、後に将軍足利義昭より諱を賜り、義珍、後に義弘と名乗りました。

 当時は戦国時代の最中でしたが、薩摩は周りを海に囲まれていた最南端の地ということもあり、また、ヨーロッパの大航海時代に時期も重なり、ポルトガル船の漂着が見られました。義弘公が八歳の時、種子島にポルトガルから銃が伝わります。天文十八年にはスペイン国王の特命全権大使としてイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが来日し、鹿児島の祇園之洲に上陸しています。この時、父貴久公はザビエルと面会していますが、果たして義弘公は父親からどのような話を聞かれたのか興味深いところです。

 初陣は、天文二十三年(一五五四)九月、現在の姶良市重富にある岩剣の合戦にて、当時蒲生から祁答院あたりに侵攻していた祁答院、入来院、蒲生、菱刈などの豪族を相手に初陣を飾りました。

 一五七二年、義弘公は九州の関ヶ原といわれた木崎原合戦にて宿敵伊東義祐を打ち破り耳川の合戦にて大友宗麟を攻め、沖田畷の戦いで竜造寺氏を討ちます。さらに八代から肥前筑紫へ進出し、岩屋城の戦いでは高橋紹運を討ちました。ここで大友宗麟が豊臣秀吉に泣きつき、根白坂の戦いで薩摩は敗北。川内の泰平寺にて、兄義久が秀吉に和睦し、島津は秀吉の配下となったのです。時に天正十六年(一五八七)のことでした。この五年後に秀吉の命を受け、朝鮮出兵に赴きます。慶長の役の最中に秀吉が亡くなったため、戦いの矛を納めますが、やがてすぐに次の天下取りを決めるべく、関ヶ原の合戦が繰り広げられます。薩摩は兵隊も兵糧も疲弊し、わずか千五百名ほどしか集まらずに布陣しました。西軍石田三成に付いた薩摩は敗北。よもや殲滅かという時に、僅かに残った手勢三百余名で東軍陣地目掛けて敵中突破を敢行し薩摩まで駆け抜けて帰ってきました。その数僅かに八十名。これだけのことになりながら、戦後の取り扱いはお家取潰しや転封にはならず、三州安堵でありました。そしてこのことを後世へ顕彰するべく始められたのが、「妙円寺参り」であり、今日まで伝えられています。

 義弘公はその後、慶長十二年(一六〇七)隠居館を加治木に建て、余生は茶の湯三昧で過ごされました。元和五年(一六一九)七月二十一日、加治木館にて八十六年の生涯を終え、ご遺体は福昌寺へ、御位牌は菩提寺の妙円寺へ祀られることになります。加治木では晩年の十二年を過ごされたにも関わらず何も公の痕跡が残されないことに郷士たちは嘆き、御霊舎として本誓寺が建立され、ご命日にはたくさんの灯篭が灯され、士踊りが奉納されました。その後明治になり、廃仏毀釈のため妙円寺も本誓寺も取り壊されることとなり、本誓寺の代わりに館内に精矛神社が創建されたのが始まりです。

 

三、四百年祭を迎えて

 島津家第三十代当主 島津忠重公の命により、かつての別荘地であり後の加治木島津家別荘「扇和園」となっていた場所を、男爵島津久賢が神社の土地として奉納され、社殿および神苑の造営がなされ、大正七年十一月二十一日に三百年祭が祭行されました。この時の社殿建築費はおよそ一万円(現在の貨幣価値で二千万円程度か)を越したと言われます。このほか多額の寄付金を集める役に忠重公より松方正義氏と東郷平八郎元帥が任命され、全国からかき集められたと聞いています。

 かつての鹿児島は、今の鹿児島県人が崇敬する西郷南洲翁を凌ぐほどの崇敬の念であったといわれ、義弘公を敬っていた様子が地元の新聞記事から伺えます。時代はそれから百年が経過し、ほとんどの鹿児島県人の意識から遠のいてしまった義弘公のご遺徳を取り戻すことはなかなか困難を極めています。しかし、義弘公が関ヶ原で生還しなかったならば、また、戦後の後処理を失敗したならば、あの明治維新はなし得なかったことであろうといわれており、斉彬公も西郷も大久保も出現しなかったかもしれないのです。後年、斉彬公も義弘公の御遺徳を語られています。

 この四百年祭を執り行うことが具体化したころ、東京の島津久光公の末裔の御当主から連絡が入りました。明治の初め久光公が東京へ上がる途中、関西の陣屋に立ち寄った際にそこの主人から伝えられた話です。、義弘公が文禄・慶長の役の出陣にあたり京都の伏見稲荷より勧進された稲荷を肌護りとして携行されていたものをずっと当家では預かっていましたが、御維新で世の様も変わってきたため廃業することとなり、この稲荷を島津家にお返し致したいとの申し出でありました。そこで久光公は東京の屋敷へお持ちになられ、御遷座をして今日まで都内の一等地のお屋敷に邸内社として祀って来られましたが、この折に元の持ち主である義弘公の膝下にお返ししたいとのお申出でした。四百年祭に先駆け、昨年十月末に東京より御遷座いたしました。 

 大河ドラマ誘致の話や、昨年は各歴史文化施設での展示、記念講演も数多くなされ、新たな義弘公の姿が、軍神としてではなく一人の人間として、家庭における父親としての実像も浮き彫りにされることが進み、なかなか魅力的な戦国武将であったことがわかってきました。全国のファンも更に増えつつあります。四百年という長い歴史を次の百年にどう活かすか、神社をお守りする立場として、公ゆかりの薩摩琵琶や天吹、古武道自顕流を通して全国に向けて大いに「言挙げ」をして発信していくべきだと考えています。

 

精矛神社 

【鎮座地】 鹿児島県姶良市加治木町日木山311  【連絡先】  0995-62-5716

【公式ホームページ】 https://kuwashihokoshrine.wixsite.com/kuwashihokohome