鹿児島神社町 KAGOSHIMA SHRINE AGENCY

月読神社 宮司 福田憲司

 月読神社由緒に関して、令和5年現在公式に残っているのは先代上原昭二郎氏の時代に創建五百年記念事業として、平成8年より平成10年にかけて拝殿の改修工事及び社務所・手水舎・厠の工事を行った際に、整理されたものが記録として残されている。以下にこれを記す。

月読神社由緒

 月読神社の創建は明応4年(1495)と伝承されている。この年の4月、島津11代忠朝は叔父の平山忠康を城代として鶴亀城を守らせると共に、細山田下中の一宮鵜殿にあった物部氏の遠祖十五神を祀る「一之宮」は「格別な武神なれば」と十五諸神の一社を勧請し、「城の守り神」として現在の地に宮床を定め「一之宮大明神」として尊崇したのが始まりという。

 慶長8年(1603)半世紀に亘 戦乱(鶴亀城をめぐる肝付氏と島津氏の攻防)のため荒廃した神社の再興が島津17代義弘の次子忠恒(後の18代家久)によって執り行われた。

 寛文12年(1672)島津出雲守久胤が奉行となり新宝殿の造営が行われ、祭神も「月読命」が祭祀され神社名も「玉兎宮一之宮大明神」と呼称されるようになる。祭日は既に明暦元年(1655)の頃から「正月中の丑の日」「九月中の寅の日」「十一月中の丑の日」の年3回と定められ、9月の祭礼の時には郷士達による流鏑馬が奉納された。また毎月朔日には、月弁の神楽が奉納されたと記録されている。

 明治4年(1871)新政府の「神社令」で神社名が「郷社月読神社」と改名され、福山村の宮浦神社から「国常立命」「国挟槌命」「豊斟渟命」の三柱を迎え合祀された。
 大正10年(1923)には、諏訪原の南方神社の祭神「建御名方神」「八坂刀女神」の二柱が合祀された。
 昭和49年現在の鳥居に建て替える。
 平成9年神社創建五百周年記念事業として拝殿・社務所・手水舎等の新改築宝殿掩棟の大修理、神苑の整理を行った。

平成9年12月吉日

 

 以上が公式な記録として残されている記録である。当代宮司が継承してより、参拝に来られた方々から、物部氏に纏わる話、記録から消えた祭神、京都府京田辺市に鎮座する月読神社との関係、及び大隅半島より失われた大隅隼人舞の話等を聞き及ぶに当たり歴史の見直しをしている最中に過疎地域活性化事業の認定を賜り、奇しくも「地域の神社地図」を賜った事もあり、近隣の神社と当神社の祭神及び地元地域の歴史的変遷とを合わせて再調査の上で、神社史の編纂に努めようと決意し、過疎地域活性化事業として誠意取り組んでいる。現在確認されている事を以下に記す。

物部氏との関りの逸話

 物部守屋が蘇我馬子達曽我一族との戦に敗れ大隅まで落ち延び、物部を名乗るのは多分に支障があった為、守屋を名乗っていたと伝えられる。尚この守屋氏は肝付家・島津家に召し抱えられ重用され様々な役職を務める等極めて優秀な一族である事を伺う事ができ、黎明館に納められている資料にも九州大学の教授により編纂された「守屋舎人日帳」などがある。

神社の祭神に関する疑問

 現在月読神社の祭神として公式に記録されているのは「月読命」「国常立命」「国挟槌命」「豊斟渟命」「建御名方神」「八坂刀女神」の六柱であるが、過去の記録には境内に厳島神社があった記録があり、祭神として「市杵島姫命」「門守神」「櫛磐門神」「豐磐間門神」の名が記されている。近隣の若宮神社と大山祇神社の地理的関係から違和感は全く無く、どのような経緯で記録から消えたのか疑問である。

京都の月読神社との関係

 神社に参拝に来られた方よりこの神社の存在を教えていただき、調べてみたところ大隅隼人の一族により建立された事、大隅隼人舞が伝わりこの大住隼人舞の保存会より資料もいただけた事もあり、過去に神社で舞われていた神楽との関連と当神社との関係を現在調査中である。尚、高山町岸良の平田神社の夏越祭で行われている弓舞との関連も疑われ、守屋氏との関り(四十九所神社神祇官が守屋氏であり平田神社の祭祀の一部がこの神社より伝承と関係している)もあり併せて調査中である。

 

月読神社

【鎮座地】鹿屋市串良町有里3134