鹿児島神社町 KAGOSHIMA SHRINE AGENCY

野間神社 宮司 田原 公

野間神社沿革

 南さつま市笠沙町に鎮座する野間神社は、その創建については諸記録に見当たらず、『三國名勝圖會』や『加世田再撰帳』などに「勸請年月不詳」と記されている。記録に残るようになったのは、島津忠良(日新)公の崇敬をうけるようになってからである(約500年前)が、もとの神社は野間岳の山頂にあった。

 この山は陸地からの眺めはもちろん、開聞岳と同じく、南方海上から薩摩半島が最初に見えることから、古来九州西岸を航行する船の重要な目標であるとともに、航海の安全を祈る心のよりどころの山であったことから、古代からの信仰として祀られてきたと考えられる。

海上から望む野間岳

御祭神

 御祭神は、記紀の「天孫降臨」中「笠沙之御前」に由来する瓊々杵尊、木花開耶姫、火闌降命、彦火々出見尊、火明命の五神である。また、現在は祀られていないが、中国から伝わった航海の守護神である娘媽神女など三神が合祀されていた時もあり、先ほど述べた航海の指標と合わせて、現在でも船乗りや漁業関係者の信仰を集め、今日に至っている。
 山頂にあった神社は、たびたびの台風で倒壊したので、島津斉興公の代、文政一三年(1830年)に現在の地に建立された。
 ここの正祭は、毎年旧暦の正月十九日から二十日に行われ、島津忠良公が厚く崇拝したことから、往時は島津藩主の代参があり盛大に行われていた。現在は、毎年二月二十日に大祭が行われ、大勢の参拝者で賑わいを見せている。

市崎木場棒踊り

 笠沙町赤生木の市崎木場集落に伝承される棒踊り。昭和四十九年に笠沙町現在は南さつま市無形民俗文化財に指定されている。集落の過疎高齢化により、一時期途絶えるが、旧小学校区の赤生木の青壮年有志で復活し、現在に至っている。

 市崎木場住民の祖先は、加世田益山からの移住者であり、洪水からの避難あるいは重労役からの逃亡と諸説ある。この人たちが日々の苦しい生活の中、皆で楽しめるものをと思い至ったのが、益山の頃見た、金峰町でのお田植祭りなどで披露されていた棒踊りである。しかしながら、踊れる者がなくそれを教わることもできず、そこで各地の踊りを見て回り、良いところのみ取り入れ、徐々に独自の棒踊りを作り出したようである。その始まりは文献などなく不明であるが、地元古老から「自分が小学一年生の時、片浦港築設の竣工式(昭和八年=90年前)の際、披露した父や兄を見に行った」と聞き取りを行っている。
 衣装は、着物に白鉢巻き、襷掛け、足袋に藁草履。鉄の鎌と長刀を持った4人ずつ計8人が、二列縦隊となり踊るのが基本形で、唄者の歌に合わせ前後左右の者とお互いに切り合うようにして踊る。歌詞は、金峰の物とほぼ同じである。切先は潰してあるとはいえ、金属の刃が切り結ぶ音は迫力がある。
 例年、二月二十日の野間神社例祭での奉納や、地元の山神祭りや文化祭等で披露している。

二月二十日 野間神社例祭での奉納

山神祭での奉納

地域の文化祭にて披露

野間神社

【鎮座地】南さつま市笠沙町片浦4108