「長島町の御八日踊り」
諏訪神社 宮司 黑木 英司
由 緒
出水市野田の領主島津常陸守忠兼(ひたちのかみただかね)公は1565年(永禄8年)3月、甥で六代当主・島津義虎の命を受け、家臣の吉満久張らとともに肥後国天草の長島(現・鹿児島県出水郡長島町)へ出兵し、長島町の汐見海岸に軍勢を上陸させた。その後、城川内にある堂崎城城主天草越前守との激戦の末、忠兼は堂崎城を攻め落とし、長島・獅子島の両島を薩摩国の領有とした。
以降三ヶ月に亘り忠兼は長島領主として治世にあたったが、敗れた天草越前守の旧臣らの中に忠兼を讒言するものがあり、それを信じた義虎が自身の居城・亀ヶ城へ忠兼を呼び出し、1565年(永禄8年)7月8日、忠兼が登城してきたところを謀殺した。忠兼の夫人と娘は悲嘆のあまり後を追って自害したと伝わる。
その後、亀ヶ城内に怪異が続き、7・8月の頃には暴風雨が荒れ狂い、常陸風と恐れられた。また野田、長島など遺縁の地には悪疫や飢饉が流行し、猛威をふるって蔓延したので人々はみな忠兼の霊気の怒りとして恐怖を覚えた。のち義虎も忠兼の無実を知り墓を立て霊気を鎮め、若宮八幡と尊称して祀った。
その後、1636年(寛永13年)第十九代藩主光久の命により、「若宮大明神」の称号を勧請し、戦場となった汐見と忠兼居城跡の新城址に若宮神社を建立し、御霊を慰めたという。
御八日踊り
長島最大の伝統行事として、汐見と堂崎城を始め島内の島津忠兼を奉る若宮神社にて、非業の最期をとげた島津常陸守忠兼の霊を慰めるため、踊りを奉納したのが始まりと言われている。旧七月八日の祭神命日、現在は八月八日に例祭を行っている。
町内の各集落が種子島踊り、棒踊り、鐘踊り、傘踊りなど伝統の踊りを披露する。
※見学には堂崎城跡、昼十二時がおすすめです。