「開饒(ひらとみ)神社の由緒・歴史」
高千穗神社 宮司 曻 清隆
御祭神
開饒神社は我が国における糖業の始まりとなったサトウキビの苗、黒糖製造技術を江戸時代初頭に中国から持ち込んだ、直 川智(すなお かわち)翁を祀った神社です。
由 緒
大和村大和浜出身の直川智翁は琉球に渡る途中に台風にあい、中国福建省に流されました。翁は、一年半の滞在期間に大陸の農業を見聞し、ひそかに黒糖の製法を学びました。
当時、中国では、製糖技術を外国人に教えることは禁止されていましたが、サトウキビの栽培技術と黒糖の製法をひそかに学び、帰国の際には、衣類箱の底を二重にして、命がけでキビ苗三本をかくして持ち帰り、大和村戸円の磯平の地に植栽しました。キビの成育は順調で次々と増産し、日本で初めての黒糖製造に成功しました。
その後、翁はサトウキビ栽培を群島内に奨励し、技術改良に専念しました。又、子孫には、家業としての伝授を命じ、製糖技術の向上と栽培の拡大をすすめました。幾多の時代を経て、現在ではサトウキビは奄美の基幹作物となっています。
川智翁の教えに従い、子孫たちは代々糖業に携わりました。『和家(にぎけ)文書』 によると、孫の嘉和智(かわち)は、1691(元禄3)年頃、薩摩藩の命により製糖技術の改良のため琉球に派遣されています。帰島後、黒糖のできも良かったことから、当時の代官から賞状が贈られています。
それから約190年後の1880年(明治13年)、子孫の嘉和誠(かわせい)が、黒糖品評会(全国綿糖共進会)に黒糖を出品した際に、川智翁の先駆者としての業績を伝える『甘蔗由来書付留』を提出しました。それを受けて明治政府は、亡き川智翁の功績をたたえ追賞しました。これをきっかけに、当時の大島郡長 中村兼志らが川智翁を祀る神社の建立を県知事に請願し、明治15年には寄附を呼びかけ思勝の尾神山の麓に開饒神社を建立しました。昭和59年には全国の製糖業関係者から多額のご奉賛をいただき改築されています。
ひらとみ祭り
以来、開饒神社には製糖業や黒糖焼酎製造業などの方々の参拝が度々あり、毎年8月最終日曜日に開催される【ひらとみ祭り】では夏の終わりが名残惜しいといわんばかりに、大和村の住民に加え島内各地から船こぎ競争やヒーローショー、花火大会などを楽しむ家族連れなどで賑わっています。また近年では、川智翁の偉業を短く纏めた大和村のオリジナル体操ソング「すなおにキビキビ体操」も発表され村民の健康増進に一役買っています。