「八坂神社 祇園祭の由緒・歴史について」
八坂神社 宮司 芝 育夫
御祭神
建速素戔嗚尊
由 緒
西之表市西町住民の要望を受け、明治五年鹿児島市の神官瀬川礫に願い、鹿児島市八坂神社よりご分霊の勧請が許された。
同年旧暦7月10日、榎本新吉氏の所有船、昌徳丸にて氏子総代榎本新吉、荒木平八郎、大木嘉太郎、池村惣太郎の各氏を鹿児島に派遣し、ご神霊を迎えた。
当初は、神殿を新原治平衡氏宅内に安置し奉祀したが、狭小で神域にふさわしくないので明治20年の冬、旧乾繭倉庫付近の海岸に面した地に遷座(今のAコープあたり)その後、大正5年7月春日山山麓(以前は付近一帯種子島の古刹慈遠寺の境内であった。)の現在地に移転された。戦火、昭和39年の台風被害など幾多の苦難を乗り越え、西町住民に信仰され続けてきた。昭和48年には、八坂神社創立100年を迎え、盛大に式典がとりおこなわれた。そして令和4年7月吉日に150年をむかえた。
祇園祭
明治8年(旧暦6月15日)祇園祭と太鼓山がはじまった。八坂神社での祭典のあと、太鼓山は編笠に白装束の青年男子約100名が、太鼓をうちならす少年4人を乗せたやぐらを担ぎ「チョッサー.サセサセ」のかけ声を上げながら八坂神社から市街地、海辺を通って対岸の王之山神社まで行き、練りまわりながらまた戻ってくる。
この間、甲女川、綿打川、安徳川の三つの川を渡る。川口の付近を胸まで潮につかりながら掛け声勇ましく渡る。太鼓山の行列の先頭には、長い柄の大きな傘がかざされ「チョッサー」のかけ声は、この長傘(ちょうさん)が由来ともいわれている。
次に太鼓山に続くのはご神幸行列で先導に八坂神社総代、猿田彦、神職、榊、塩、神職、槍、神職、神輿、神職と続き、女性たちを乗せた山車は、賑やかな鉦、太鼓、お囃子とともに祭りに彩りを添える。山車については、明治30年頃にはすでに祭りに出していたと伝わる。次に続くのは各自治会で作られたオリジナルの神輿を担ぐ子供たちで市民体育館まで担いでいく。
鉄砲祭り
昭和38年10月12日を、鉄砲伝来420周年を記念し第一回鉄砲祭りが開催された。鉄砲祭りは、1543年8月25日にポルトガル人が初めて漂来し鉄砲を伝えたのにちなむもので本来は旧暦だが夏祭りの一つとして新暦の8月25日に行うようになった。
当初、別々におこなわれていた祇園祭と鉄砲祭りは少子化と若者の減少により、昭和45年から合同で実施されている。
この行事は近年にはじまるもので新しいが、在日ポルトガル大使館からも出席してもらい 日葡修好記念碑のある若狭公園で盛大に開催されるなど、種子島名物行事の一つになっている。この日はポルトガル人や当時の島主時尭公やその家来たちを模した南蛮行列もくりだされ、市内各地の民族芸能も披露されている。夜は華やかなステージが設けられ、最後にフィナーレを飾る16,000発の花火がうちあげられ夜空を彩る。
八坂神社
【鎮座地】西之表市西之表6973




